私達と同じ、ごく普通の人達

天の御国の鍵
わたしは、あなたに天の御国の鍵をあげます。マタイ 16:19
世の中に溢れる様々な問題、また自分の身の回りの問題に目を留める時、私達は圧倒されてしまいます。自分は本当に無力だと感じてしまいます。しかし、イエスは私達を召し出して、それらの問題の全ての解決を私達に授けて下さいました。イエスは、ご自分が父なる神様によって遣わされた様に、イエスが私達をこの世に遣わすと言われました。
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」ヨハネ20:21
私達クリスチャンは、御国の鍵を預かっていますが、具体的に言うと、御国とは何でしょうか?イエスの生涯にそれが分かりやすく示されています。

神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。使徒10:38
イエスはどこにいても必要のある人に解放や癒し、救い、赦しを与えました。つまり、その人達が必要としているものをイエスが提供したのです。ギリシア語で「救い」と訳される一つの言葉は、ソーゾーです。ソーゾーは、「完全となる」という意味があります。イエスは、人々に御国の福音を伝えながら、その御国の御業を提供し、必要な人に「全き人生」を提供しました。つまり、その相手に問題の解決を与え、病気の人には癒しを、悪霊にとられている人には解放を、罪に惑わされている人には赦しを与えられたのです。私達も周りにいる人々に、「福音の話し」を分かち合うだけではなく、「神の御国とその力の現れ」、つまり解放や、癒し、また救いの御業を与えるために、召されているのです。
神の国はことばにはなく、力にあるのです。
1コリント 4:20

私達と同じ様な人
ヤコブの手紙に、雨が降らない様に、また降る様に熱心に祈ったエリヤの話しが書いてあります。興味深い事に、ヤコブは「エリヤは、私たちと同じ様な人でした。」(ヤコブ 5:17)と書いています。
偉大な御業のために用いられる人は、特別、また偉い人だと思ってしまう私達にとって、この箇所は驚きです。しかし、ヤコブははっきりと語っています。多くの偉大な御業に用いられたエリヤは、私達と同じ様な人でした。
実は、イエス・キリストご自身も神の御姿を捨ててこの地上に来られたので、地上でなさった全ての御業は、御霊によって出来たものでした。(ピリピ2章)だからこそ、私達キリストにある者も、イエス・キリストの様な業を御霊によって出来るはずです。イエスは、明確にこの事を私達に約束して下さいました。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」
ヨハネ 14:12
神様に用いられるために、どんな資格が必要でしょうか?私達と同じ様に、普通の人となり、普通の人が聖霊に満たされ、神に従う時に可能な生き方の見本を、イエスご自身が示して下さったのですから、私達に必要な資格は一つもありません。普通の人が、超自然な神様に用いられるというのです。いや、ごく普通の私達だからこそ、大いなる神様は、喜んでその偉大な御業のために私達を用いて下さいます!
毎日の生活の中で現される天の御国
それでは、改めて質問します。私達の毎日の生活において、天の御国はどの様に現されて行くのでしょうか?ここで、いくつかのごく普通の人達の証しを分かち合いたいと思います。具体的な天の御国のイメージを受け取って下さい。覚えて下さい。この証しに登場する人達は皆、あなたや私の様な、偉大な神様に満たされている、ごく普通の人達です。

・カリフォルニアのシングル・マザー
特別の訓練も、資格も無い、救われたばかりのお母さんが、自分の友達や知り合いの間で、簡単な聖書の学びと話し合いの時を持ち始めました。聖書の学びの際、皆が神様に耳を傾ける様に励まし、また、一週間の間、その会で学んだ御言葉を実践する様、踏み出す様に励ましました。このお母さんが聖書の学びを教えるのではなく、ただ御霊が直接一人一人に語る様に導いています。少人数の中で、神様に学んだ事、それを受けて自分が決心した事、また一週間の証しをわかち合っています。そんなシンプルな集まりを通して、1年で60人以上が救われて洗礼を受けました。また、同じ様な会が10グループにも増え、100人以上が繋がる様になっています。私達と同じ様な一人のクリスチャンが、踏み出して、御霊に頼った事で始まりました。

・ドーナツを買いに行ったチャド
神の御国はどの様なものでしょうか?アルバイトを終え、ドーナツを買いにスーパーマーケットに行ったチャドの様なものでしょう。チャドは、補聴器を付けている婦人を見つけ、「祈ってもいいですか?」と声をかけました。女性は、驚きましたが喜んで祈ってもらいました。祈っている最中、彼女の耳が完全に癒され、彼女が大声で泣き出しました。レジの人も、二人の事を見て泣き出しました。チャドは、店内放送のマイクを借りて、「店内に祈りの必要のある人がいるなら、レジの所に集合する様に」と、アナウンスしました。その後、数名が様々な病気のために、スーパーの中で祈ってもらい、癒されました。それを目の当たりにした数人は、奇跡を見てイエスを受け入れました。チャドは、ドーナツを買うのを忘れて帰ってしまいました!私達と同じ様な一人のクリスチャンが買い物の時に、必要のある人のために祈った事で始まりました。

・サマーアウトリーチをした英会話の先生
大阪難波のハンバーガー店のオーナーの奥さんと娘さんが、英会話のクラスに出席しました。クリスチャンの先生は、不景気によるお店の売上を心配している奥さんのために、また店の繁盛のために祈りました。次の日から、店は、見た事の無い様な行列で、大きな売上を記録し、奥さんは英語の先生の祈りの結果だと確信が与えられました。神様の祝福を経験した奥さんと娘さんは救われて、洗礼を受けました。私達と同じ様な一人のクリスチャンが、経済的に困っている人のために祈った事で始まりました。

・飛行機の中で
2008年1月ヨーロッパからアメリカへの飛行機の中で、あるクリスチャンの男性に隣の婦人のために、腰の痛みを示唆する知識の言葉が与えられました。彼が、声をかけて、その人のために祈りました。彼女は、その場で腰の怪我から癒されました。その癒しを見た乗務員の女性が、今度は膝の痛みのために祈ってもらい、またその場で癒されました。その後2-3時間に渡ってその男性は、大西洋の何千メートル上空で数十人のために祈りました。まるで、飛行機の中のミニ・リバイバルでした。多くの人が癒され、数人は救われました。その中には、あるイスラム教徒で、足の怪我が癒されて、イエスを信じる様になった人もいました。全ては、私達と同じ様な一人のクリスチャンが隣の婦人のために祈った事で始まりました。

・カフェで友達を作る人
カリフォルニア州、ロングビーチの学生街で、あるクリスチャンのグループがアウトリーチのために、カフェを開こうと計画しました。カフェのミニストリーを通して福音を伝え、人が救われる素晴らしいビジョンを持っていました。しかし、開く直前に、「なぜ、自分のカフェを開くのか?多くの人達がすでに通っているカフェに行ってみては?」と神様に語られました。自分達のカフェのビジョンを捨てて、彼らがその地域のカフェに出かける事にしました。普段は関わる事の無い学生のグループに接し、暗闇の中に光を照らし、多くの人が救われてきました。教会や教会のイベントには絶対に足を運ばない様な人達が、このミニストリーを通して続けて神の御国を経験しています。私達と同じ様なクリスチャンが、踏み出して、人々が既に集まる所に神の御国の光りを照らした事で始まりました。

・山間部族の宣教師
1970年代、ジムとその奥さんが、アメリカを捨てて、山間部の部族に福音を運ぶためにインドネシアに行きました。西洋の贅沢を捨てて、その部族の人の様に、竹の家に住んで、聖書の翻訳と福音を伝える事に励みました。しかし、長い間その部族は、福音に興味を示す事はありませんでした。ところがある日、村の子供の一人が川で溺れてしまいました。村全員が集まり、ジムの奥さんが人工呼吸をし始めました。20分続けても、その子は息を吹き返しません。奥さんが諦めかけたその時、ジムが信仰を持って子供に命を命じた正にその瞬間に、子供が息をし始めました。その奇跡によって、村の人はイエスに、また聖書の話しに興味を持ち始め、今日、その部族の殆どが信仰を持っています。私達と同じ様なクリスチャンが、人間の力を諦めて、神様の御力に頼った事で始まりました。

・祈る友達
ある女性は、結婚後、夫の暴力がどんどん酷さを増し、自分だけでなく子供達の命をも危険にさらされる様になって初めて、自分がそんな現状を受け入れ、諦めてしまっている事実に目が覚めました。そして長らく音信を絶っていたあるクリスチャンの友人に助けを求めました。友人はもう一人の祈り仲間の女性を招いて、三人で共に祈る時を持ち、「彼女が幼い時に何か敵の嘘を受け入れてしまい、信じ込んでしまうきっかけとなった出来事が無いか」と聖霊に耳を傾ける祈りをしてみました。すると驚いた事に、彼女が2才の時、父と出かけた釣りの際、溺れそうになり命を落としかけた時の記憶が甦ってきました。その時に確かに彼女は「私はもうこのまま死ぬ。」という敵の嘘(=本当はそうならなかったのに。)を信じてしまったのでした。「失ったも同然」の人生を生きてきた彼女は、クリスチャンになってからも自分の人生の価値を見出す事は出来ませんでした。だから、夫からの酷い仕打ちに際しても、自分の身を守る事すら出来なかったのです。「どうせ、死んでいたものなんだから、、、」そう思っていた彼女に、神様はその場で真理を見せて下さいました。神ご自身が、その一人子を捨ててまで守りたかった大切な命、それが彼女である事をです。それからの彼女は人が違った様でした。Xデーを決めて家庭内暴力を行う夫とは完全に手を切り、自分や子供達を必ず守り、導いて下さる神様だけに頼って新しい人生を踏み出す事が出来ました。私達と同じ様なクリスチャンが、神様の御声を聞くために、一緒に手を置いて彼女のために祈った事で始まりました。

・幼稚園児の父親
ある神戸の幼稚園のイベントで、クリスチャンであり、園児の父親である一人が、他の未信者のお母さんの横に並んで立っていました。そのお母さんが、腰にコルセットをしている事に気付いたその男性が、祈ってもかまわないかと声をかけました。お母さんは驚きましたが、喜んで祈ってもらいました。クリスチャンの男性は、許可を得てから、手を軽く腰に起き、短く祈りました。そして、変化があったかどうか、お母さんに確認しました。その時に、ちょっと軽くなったと感じたお母さんは、次の日、幼稚園の園長先生に報告しました。何年間も患って、入退院を繰り返していた程のひどい腰のヘルニアが、全く癒されたというのです。その日持ってきた松葉杖も、帰りには使わずに帰ったそうです!彼女自身が本当に驚いて、祈ってくれたその男性に、是非お礼を言いたいと申し出たのでした。私達と同じ様な一人のクリスチャンが、踏み出して、隣の人のために祈った事で始まりました。

・物品販売サービスを始めた男性
あるインドの男性は、自分の町からちょっと離れた村に対する重荷を感じました。しかし、その村は福音に対してかなりの抵抗がありました。以前、そこで宣教活動をしていたクリスチャン達を暴力で追い出した事もありました。ある日、彼はその村の人が大きい町の市場に通って、買い出しをしている事に目を留めました。そこで彼は、自転車で市場からの品物を仕入れて、離れた村まで運びこみ、僅かの利益でそれらを村の中で販売するサービスを始めました。村の人達は喜んで彼のサービスを利用しました。時間が経ち、村の人と信頼関係も築かれ、福音を伝えるチャンスが与えられました。今では、何家族かがイエスを受け入れています。私達と同じ様な一人のクリスチャンが、人に仕える道を探して、踏み出した事で始まりました。
これらの話しは全て、実際に起こった話しです。世界中、また日本中に関係を持つ人達から、直接報告してもらった彼らの生きた証しです。これは、大きな大会や特別伝道集会で行われた御業でもなければ、有名な伝道師によってなされた御業でもありません。あなたや私の様な「普通のクリスチャン」の証しです。ただ、不可能なもの、また妨げとなるものを打ち破るために、神様の超自然的な御力に頼る様、彼らは踏み出しただけなのです。

愛と信仰
信仰がなくては、神に喜ばれる事はできません。ヘブル11:6
...愛がないなら、何の値打ちもありません。1コリント13:2
神様に用いられるためには、何の資格も要りませんが、聖書の言葉を見ると、二つのものが重要だと書かれています。それは愛と信仰です。
神の愛によって、自分の目ではなく、神の目を通して、人を見る事が出来ます。恥や恐れを捨てて、その人に神様の愛を届けます。
信仰によって、その人が直面している問題の解決が聖霊により私達に宿っていると信じる事が出来ます。自分の能力、自分の力に頼らず、神の御霊の働きに任せる事が出来ます。
神の愛と恵みの器となるために、今日、あなたも、遣わされたその場所で、愛と信仰の一歩を踏み出して見ませんか。

ジェフ&綾 リンスコット
2009-2010年のダイアリーより

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