私達は流れを変える事ができる


地域を、都市を、国を変革する事は可能でしょうか?
イエス様はそうできると考えたに違いありません。イエス様は私達に、御国が来ますように、御心が天で行われているように地でもなされますように、と祈るように言われました。そして、全ての国民を主の弟子とし、イエス様が私たちに命じられた全ての事を行うように教えなさい、と言われました。
もし神の御心が地でなされる事や、国々が神の知恵深い命令から学ぶ事が不可能であったなら、イエス様はそのような命令を私達に与えられたでしょうか。いいえ。イエス様は正しく、愛に満ちているお方です。私達にできない事をしなさいと言われる事はありません。確かに、イエス様は私達がただ座って、現状に甘んじる事を望んではおられません。
ある人は、この地上において悪を阻止する事はできないと主張します。時代は主が再び来られるまで悪くなっていく一方であると彼らは言います。悪が増している事については私も同意しますが、イエス様は運命論者ではなく、私も違います。私達は国々が変革するのを見る事ができるのです。罪の増し加わるところに恵みも増し加わると聖書は語っています。増大する悪に対して私達があきらめる事を主は望んでおられません。
あなたは、将来は良くなっていくと信じる事ができますか。全ての国民を主の弟子とし、教えなさい、というイエス様の命令は、希望をもたらしてくれる2つの素晴らしい理由の間に挟まれているという事に注目してください。イエス様は全ての権威を持っておられると宣言され、また私達と共にいてくださると約束されました。イエス様はこう言われたのです。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18-20)
イエス様は国々を変えるのに、私達を置き去りにされたのではありません。私達が自分達の力でそれをする事を期待しておられるのでもありません。アルファでありオメガである方が、主ご自身と共に、主の権威のもとに、この働きに参加するように私達を招いておられるのです。
私達は聖書を読む時、確信を得る事ができます。神が全てのものを造られ、それを保っておられるのです。私達の目に見えるものも、見えないものも全て統べ治めておられます。イエス様は、気楽にくつろいで、私達の世界の状況に関心を払っていないのではないのです。ご自身の力と権威を用いて、国々を、人々をご自分と和解させようと生きて働いておられるのです。そして、歴史上最も偉大な、この働きに参加するようにと私達に求めておられるのです。

現実を生きる
もし私達が失望感や無気力に陥るなら、私達は現実を生きていない事になります。私達は自分がキリストにあってどのような者であるかを見、体の芯に力を得る必要があります。
私は世界中の様々な教会でこう尋ねました。「救われている人、手を挙げてください。」すると、会場全体で手が挙がります。それからこう尋ねます。「では、完全な人、手を挙げてください。」すると、だれも手を挙げません。そしてこう尋ねます。「イエス様を信じた時に比べて、ずっと良くなったという人、手を挙げてください。」すると、だれもが手を挙げます。
神は、私達の生活を変えるのと同じように、国々を変えていかれます。使徒ヨハネはこう言いました。「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」使徒パウロは、キリストが全ての力と権威に勝るお方であると述べています。このような真理に基づいてこの世界を見る時、罪や破滅が勝利する必要がないという事に私達は気づくべきです。その事を世にも示すために、私達は立ち上がり、自分にできる全ての事をすべきなのです。

この世はこれほどまでに悪に満ちている必要はない
ある人は、私の事を非現実的であり、一種のユートピア、理想主義者だと言うかもしれません。そうではないのです。イエス様が再臨され、新しいエルサレムを建設されるまで、完全な国民は一つもありません。罪はより暗くなっていきます。しかし、光もより輝くのです。暗やみが光を打ち負かす事はないと聖書は言っています。イエス様はご自身が世の光であると言われました。また、イエス様に従う私達も世の光であると言われたのです。

枡と寝台
私達の地域において光が輝くにはどうしたら良いのでしょうか。全世界において、ますます光が暗やみに打ち勝つにはどうしたら良いのでしょうか。それは、私達がその働きに関わる時にのみ起こります。イエス様は私達が世の光であると言われましたが、私達はその事に対して受身的であってはなりません。イエス様はマルコ4:21で明かりをつけながら、それを枡や寝台の下に置くという例えを用いて語られました。イエス様は何を語っておられるのでしょうか。
枡は物質的な備えの象徴です。もし私達が自分や自分の家族の必要を満たすためにのみ生きているなら、枡の下に光を置く事になります。それでは物質主義のために生きるだけで、光を輝かす事ができないのです。
イエス様は明かりを寝台の下に置いてはならない、とも語られました。寝台は快適さの象徴です。ただ快適な生活だけを望み、心地良さを失うような状況を避けようとするなら、私達はキリストの光を隠す事になります。
主は、暗やみの中に生きている人達でさえ光を見る事ができるように、私達が全世界において光を輝かす事を求めておられます。それは、私達が主に従い、主の光をどのようにこの世にもたらすかを求める時にのみなされます。イエス様は私達に何を語っておられるのでしょうか。

救いだけでなく、弟子訓練も
もし国々が変革する事を求めるなら、私達はまず人々がイエス・キリストを個人的な救い主として受け入れるように導く必要があります。イエス様はマルコ16:15で、全世界に出て行き、全ての人に福音を宣べ伝えるようにと私達に命じられました。しかし、まだ15億人もの人々が、私達がその命令に従うのを待っているのです。言い換えるなら、世界の人口の4分の1の人々が、まだ福音を聞いていないのです。私達はそこに光をもたらす必要があります。人々に福音に応答する機会をもたらす時、パウロの言う、暗やみから光の支配へと人々は移されます。これが救いの意味です。市民権の変更なのです。
しかし、例え地上の全ての人に福音に応答する機会をもたらしたとしても、それだけでは十分ではありません。救いは大宣教命令の半分に過ぎません。イエス様はマタイ28:19-20で、残りの半分、つまり弟子訓練についての命令も与えられました。その箇所でイエス様は、私達が個人に対してのみではなく(マルコ16:15では個人が強調されていますが)、人々が主の弟子となるようにしなさいと命じられました。マタイ28章では、「国民」全体を考えるようにと言われたのです。

誰が国を建設するのか
最近、多くの指導者や専門家は国を「建設」するのは誰の役割であるべきかと議論しています。彼らの議論はラジオでも、インターネットでも、印刷物を通してもあふれていますが、まだ明確な答えを示す人は誰もいません。では、誰が国を建設するのでしょうか。軍隊ですか?平和維持者ですか?政治の指導者ですか?国連ですか?NGOですか?この質問に答えるには、言葉の定義を明確にする必要があります。一体、国とは何でしょうか。
私達は「国」という言葉を使う時、しばしば「国家」、つまり政治的な組織や政府を意味します。国境や、パスポートや、国旗について考えます。しかし聖書は、国に対して異なった理解を私達に示しています。創世記を見ると、家族が部族になり、部族が国々となり、それが言語によって分かれて、全地に散っていった事が分かります。その視点から見るなら、国とは単純に人々からなる家族や部族なのです。共通の伝統、言語、信条、そして「文化」と呼ばれる物事を行う習慣を共有する人達なのです。
新約聖書における「国民」という言葉は、ギリシア語では「エスネ」と言います。それは英語の「エスニック・グループ(民族)」という言葉に近い言葉です。神が国々をご覧になる時、共通の文化や言語を持つ、家族や部族からなる民族を、今でも主要なものとして見ておられると私は信じます。国民とは「人々」のことなのです。
もし国を建設したいのなら、私達は人々を、家族を、部族を、民族を、国全体を建て上げる必要があります。これこそ、イエス様がマタイ28:19で私達に与えておられる任務なのです。イエス様はご自分に従う者達は国を建設するべきであると言われました。しかし、私達はそれをどのようにしてすればよいのでしょうか。
マタイ28:19-20にあるイエス様の言葉をもう一度見てみましょう。

弟子とする
あなたがたは行って、弟子としなさい ...
人々を主の弟子とするとはどういう事でしょうか。弟子訓練とは、ある人が聖書の基準に従って変えられていくのを導くプロセスです。パウロはローマ12:2で、変革とは新しい心、新しい考え方を持つ事であると述べています。変えられた考え方は、人が神に従い、神の御声に耳を傾け、御言葉にとどまる事によってもたらされます。
私達はイエス様がなさったように、個人を主の弟子とする事から始めて、全ての国民を弟子としていきます。個人が変えられていき、神の真理をその人の生活や社会の全ての領域で適用していく時、その人は他の人達に影響を与え、その人達がまた別の人達に影響を与えていきます。ある時点で、少数ではあっても、影響力があるほどの数の人達が変えられ、国全体が変えられていきます。イエス様はこのプロセスを説明するために、パン種の例えを用い、わずかな量が全体に影響を与えると言われました。それは伝染していくのです。

全ての国民
あらゆる国民を弟子としなさい ...
イエス様は私達に全ての国民を弟子とするように命じられました。全てです。例外はありません。イエス様は簡単なところに行きなさいとか、回心者を起こす事が法律で許されているところに行きなさいと言われたのではありません。全ての国に行くようにと言われたのです。どの国に対しても、難しすぎるから、大きすぎるから、危険すぎるから、希望がなさすぎるから、よく知りすぎているから、あるいは知らなすぎるから、遠すぎるから、近すぎるから、といった理由で避けてはならないのです。福音とそれがもたらす祝福とは全ての国のためにあります。かつて、ジョン・ウエスレーはこう言いました。「私の教区は全世界である。」私達は全世界を含めるように考え方を広げ、神が見ておられるように見る必要があります。誰もが、どの国もが、神にとって尊い存在なのです。

バプテスマを施す
父、子、聖霊の御名によってバプテスマを ...
ある人はこう言うでしょう。「どのようにして国民にバプテスマを施す事ができるのですか。」もちろん、個人に対してするのと同じように国民にバプテスマを施す事はできません。では、イエス様はここで何を意味しておられるのでしょうか。私達がより多くの人々にバプテスマを施し、彼らに御言葉とイエス様を紹介する事によって、やがて少数の信じる群れが起こり、彼らが国を変えていきます。そのようにして国民全体が聖書的な世界観に浸され、復活し、社会の全ての領域に変革が起こっていくのです。

教える
わたしがあなたがたに命じておいた全ての事を守るように教えなさい ...
イエス様は全ての国民に教えるようにと私達に命じられ、そのカリキュラム、つまりイエス様が私達に教えてくださった全ての事を与えられました。聖書全体が国々を教えるための教科書です。それは単なる知識ではない事に目を留めてください。イエス様は全ての国民に「守る」ように教えなさいと私達に言われたのです。
これは大きな任務ですが、私達にできない事ではありません。イエス様が力を与えてくださるので、イエス様が私達に言われた事はどんな事でもできるのです。
イエス様ご自身が、私達のために、御言葉全体を生き抜いてくださいました。真理が現実の生活においてどのようなものであるかを示すために、この世に来られました。そして、私達と共にいるという約束をもって、私達に他の人達に教えるようにと命じられたのです。私達が伝えるべきメッセージを要約する事さえしてくださいました。最も大切な戒めは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神である主を愛し、自分自身のように隣人を愛する事であるとイエス様は言われました。これこそ私達が伝えるべきメッセージの要点であり、国民に教えるべき原則です。
しかし、どんなに原則がよくても、それが冷たく、個人的に関わりを持つ事のできないものであるならば、人々や国々を変える事はできません。私達が神の原則に従って生き、神との契約を結ぶ時、私達は神の御国を拡大する事ができるようになります。神に対するあらゆる反逆を捨て去り、御子を通して与えられる信仰によって神の赦しを得るなら、私達は命を得ます。そして、御霊が私達を満たし、御言葉が生きたものとなります。御言葉の中におられる命の言葉である方がどんな方であるか知るようになります。イエス様はご自身の原則が私達の品性の一部となるように働かれます。私達の言葉や行動を通して表される私達の品性は、私達がどこにいても、社会におけるパン種となり、義をもたらすために影響を与えます。これこそ、神の御国が来、御心が天で行われるように地でもなされるための方法なのです。

ローレン・カニングハム著
The Book That Transforms Nations: The Power of the Bible to Change Any Country (Seattle: YWAM Publishing, 2007) の29-35ページ、45-46ページより抜粋したものです。 

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