文化:物質的なものと霊的なものが集まる所

神は、人間を文化を作る者として造られました。そして、私達がどんな文化を作り出すかは、とても重要なのです。どんな職業に、どんな分野に召されていても、クリスチャンとして私達の働きは、究極的には神の御国の文化-神の真のご性質とご性格を反映している文化-を造る事なのです。
文化の作り手としての私達の責任は、創造物と文化の両方の統治をするよう召された事でした。それは、創世記1:26-28の創造の話の中に見出されます。

私達と同じ、ごく普通の人達

天の御国の鍵
わたしは、あなたに天の御国の鍵をあげます。マタイ 16:19
世の中に溢れる様々な問題、また自分の身の回りの問題に目を留める時、私達は圧倒されてしまいます。自分は本当に無力だと感じてしまいます。しかし、イエスは私達を召し出して、それらの問題の全ての解決を私達に授けて下さいました。イエスは、ご自分が父なる神様によって遣わされた様に、イエスが私達をこの世に遣わすと言われました。
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」ヨハネ20:21
私達クリスチャンは、御国の鍵を預かっていますが、具体的に言うと、御国とは何でしょうか?イエスの生涯にそれが分かりやすく示されています。

神の御国:標準的なクリスチャン生活

全てのクリスチャンの内には「不可能な事」に対する飢え渇きがあるのが当然です。なぜなら、私達の内には不可能とされるものがイエスの御名の前に「可能になる」、このような奇跡を要求する霊的DNAが組み込まれているからです。
奇蹟が起こらないのは神の御心ではないのです。それは私達の「思い」に問題があり、私達は変革 - 思いの一新 - される必要があるのです。そしてこの変革は、必死に追い求める人に働いてくださる、聖霊の働きによってのみ可能となるものなのです。
もし私達が、イエスは病人を癒す事も、悪霊に悩まされている人を解放する事も、そして死人を生き返らせる事もできなかった、と信じるとすれば、それはイエスがご自分について語られている事を無視する事であり、何よりもそれ以上に、イエスが人として生きるために自らを制限の下に置いてくださったその目的を見失う事になります。

支配するのではなく、仕える

全ての国民を弟子とする過程で、教会の役割を明確にする必要があります。教会は、社会の全ての領域において、良心と知恵をもたらす預言的で、愛にあふれる声であるべきです。教会が本来の役割を超え、踏み込むべきでない領域を侵害し、強制的に変革をもたらそうとするなら、社会は抑圧され、神の御国はその立場を失います。
教会が他の領域を支配しようとするならキリストの目的に反してしまいます。キリストに従う者として、支配的な思いではなく、愛の奉仕によってそれらの領域に影響を及ぼしていくべきです。これが神の方法だからです。

教会の役割

「会衆としての教会か、全ての領域における教会か」

全ての国民を弟子とするという任務を全うするためには、「教会」という言葉をどのように用いるかを明確にする必要があります。私たちは時々、教会とは社会に影響を及ぼしている多くの事柄の一つであると考えます。それは組織としての教会のことで、ビジネスや政治などと並んで扱われるものです。教会は交わりにおける様々な働きを通して、伝道と愛をもって建て上げ合う事によって増え広がっていくという使命を帯びています(エペソ4章)。ですから、私たちは「教会開拓」という考え方を抱くようになりました。どこでも、誰でも、礼拝、ケア、成長、派遣の機会を提供する、建て上げ合う交わりを必要としています。このような集まりは、会衆としての教会と呼ぶ事ができます。

社会の各分野における原則についての聖書の学びの一例

政治
私の聖書では申命記1:9-18は政治を示す紫色がつけられています。この箇所は全て政治について言及されています。私は13、14、17節に下線を引いたのですが、それはモーセがこの箇所で明らかに政治についての原則を述べているからです。「あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう」(申命記1:13)。

神はもう一度やり直す事ができる

「どこからおかしくなったのでしょうか。」
「なぜクリスチャンが多数を占める地域がこんなにひどい状況にあるのでしょうか。」
「なぜ福音はこのような混沌をもたらしてしまったのでしょうか。」

私は時間つぶしにテレビを見ながらチャンネルを変えていました。ある番組で、イギリス人のジャーナリストが、クリスチャンたちは、キリストを信じる人が多ければその地域に良い影響を与える事になると信じていると語っていました。つまり、クリスチャンの存在が大きければ大きいほど、社会全般に与える益も大きくなるという事でした。私はその司会者の言う事にうなずきました。私たちはそう教えているからです。

主よ、祈ることを教えて下さい

イエスが弟子たちに教えた祈りに従い、具体的な方法で主の御国が到来するよう、また主の御心が行われるよう祈っていきます。天の父の御心に従って、子供たちが奴隷生活やエイズから解放されるよう、神の御名が西側諸国でも中東でもあがめられるよう、また食糧や水のない何百万もの人々に日々の糧が与えられるよう、民族虐殺や何世代にもわたる憎悪の代わりに赦しがあたえられるよう、その他多くの世界の必要のために、祈っていきます。お祈りするときに、マタイの6章とルカの11章を読み、主の祈りを黙想するようお勧めします。

神の御国

だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行なわれるように地でも行なわれますように。」マタイ6:9-10
数年前、フィリピンである宣教師が毛沢東反乱軍に入ろうと考えていた若者に出会いました。ある日その宣教師は、グループのリーダーに、クリスチャン信仰では体験できない、毛沢東主義のもっている魅力は何かと尋ねました。若者の答えは、深遠かつ痛烈でした。

とりなしの作戦     

私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ(る)。2 コリント 10:4-5

取りなしの祈りとよく聞きますが、実際にはどのように祈ればいいのでしょうか?
私達クリスチャンの信仰生活、また行いの土台は聖書です。聖書の御言葉の中に、はっきりした祈りの原則がたくさんあります。実際的な方法や、御言葉をもって祈るパターンがあります。

祈りのよる励まし


「説教者の君」、チャールズ・スポルジョン(1834-1892)は、偉大な信者であり、聖霊に導かれ祈る、情熱に満ちた教師でした。祈りについての力強い説教の抜粋を紹介します。
たたきなさい!
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば、開かれます。マタイ7:7
力強い祈りに勝るものはありません。力強く祈る者はその願いのすべてを手にします。

なぜ宣教なのでしょうか?

なぜ、祈るのでしょう?なぜ出て行くのでしょう?なぜ宣教なのでしょうか?
ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。黙示録5:12
あまりにも多くの人々が霊的な暗闇と偽りによってキリストから引き離され、キリストを知らずにさまよっています。全てのクリスチャンには主キリストのために、そのような人々に宣べ伝えることが神の御心であるという聖書的な理由があるのです。その7つの理由を挙げてみましょう。

民族への祈り

聖書の中に「国々」という言葉が253回出てきます。これは民族の集まりを示します。これは国を形成する民族−つまり、国を作りあげている人々の集団を意味します。
ここで、あなたに、「世界中で福音を聞いたことのない人々の集団」という概念を紹介します。これら最後の3500の福音を聞いたことのない人々−それは、地球上の人口の全体で20億人以上となるのですが−へのドアを開ける鍵を発見する為に、私達は祈り始めなければなりません。これは非常に重要な事です。

国々を動かす、あなたの力

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送って下さるように祈りなさい。」マタイ9:37-38

中国のニ−さんの目は驚きで輝きました。こんなすばらしい救いの話は、今まで聞いたこともありませんでした。彼はイエス様を救い主として受け入れて、クリスチャンになる決心をしました。
二、三日たってから、ニ−さんは宣教師のハドソン・テ−ラ−に聞きました。「あなたがたの国では、いったいどのぐらい前からこのすばらしいニュ−スを知っていたのですか?」

私達は流れを変える事ができる


地域を、都市を、国を変革する事は可能でしょうか?
イエス様はそうできると考えたに違いありません。イエス様は私達に、御国が来ますように、御心が天で行われているように地でもなされますように、と祈るように言われました。そして、全ての国民を主の弟子とし、イエス様が私たちに命じられた全ての事を行うように教えなさい、と言われました。

日本人が祈り、捧げ、行く時に世界が変わります

実際の例:祈ること、捧げること、また行く事によって、日本の教会がある未伝道の部族に福音を伝え、ムーブメントが始まりました。数多くのアフリカ人の将来に影響を与えました。

ある大阪の教会は、モザンビークに対する重荷が与えられました。90年代の半ば、モザンビーク在住の日本人宣教師と関係を結び、祈り、経済援助と実際行くことによってサポートし始めました。
その宣教師は、コティ族と言う、大体6万5千人のイスラム教徒の部族の間で働いていました。コティ人は、アンゴシエ市と離島に在住しました。

神の子供としてのアイデンティティ

自分がキリストにあって何者であるかを知る事。御国をこの世に来たらせる働きは、そこから始まるのです。

奴隷としての生き方は、偽の神の子供達のものです。それは、バプテスマの川の向こう側に備えられた自由を手に入れる事無く、暗闇の王子の拷問と辱めに捕われたままの奴隷が置かれている状況です。彼は人々を惑わし、貧困と痛み、絶望の人生へとおとしめるのです。また彼らの本当のアイデンティティを永遠に封じ込めようとするのです。この悪の王子は捕われ人達に、彼らの義に飢え渇いている魂のための偽りの毒の食物を与えるのです。

デボーションを持つ心得

私達は、毎日の生活において、神様と二人きりの時を持ち、御言葉に心を向け、主を賛美し、その中で自らが主にあって新しく造り変えられ、回復させられることの重大さ、それが不可欠なのを心得ています。それなのになぜ、日々の生活の中でそのような主との静かな時を見つけるのが、時に不可能と思われるほど困難なのでしょうか。

静思の時を持つ動機
静思の時を持つとき、時として私達の動機が神のそれとかみ合っていないことがあります。私達はよく、静思の時に臨むにあたり、自分自身や又は自分の愛する者のための、様々な必要や心配事を長いリストにして、

とりなしの祈り

そこで、まず初めに、このことを勧めます。全ての人のために、又、王と全ての高い位置にある人のために、願い、祈り、とりなし、感謝が捧げられるようにしなさい。
テモテ2:1
とりなしの祈りとは何でしょう。とりなしとは、聖霊によって導かれ、かき起こされた、他の人への祈りの事です。とりなしの祈りをする人は、御言葉が言っているように、「わたしの前で...破れ口を修理する」(エゼキエル22:30)仲介人となるのです。

効果的なとりなしの