神はもう一度やり直す事ができる

「どこからおかしくなったのでしょうか。」
「なぜクリスチャンが多数を占める地域がこんなにひどい状況にあるのでしょうか。」
「なぜ福音はこのような混沌をもたらしてしまったのでしょうか。」

私は時間つぶしにテレビを見ながらチャンネルを変えていました。ある番組で、イギリス人のジャーナリストが、クリスチャンたちは、キリストを信じる人が多ければその地域に良い影響を与える事になると信じていると語っていました。つまり、クリスチャンの存在が大きければ大きいほど、社会全般に与える益も大きくなるという事でした。私はその司会者の言う事にうなずきました。私たちはそう教えているからです。

そのジャーナリストは、最もキリスト教化されている(教会の礼拝出席者の割合が最も大きな)都市を選び、その影響が具体的にどのように現れているかを見てみるように提案しました。当時テキサス州ダラス市は、アメリカで日曜日に教会に行く人の割合が最も多い都市でした。そこでジャーナリストはこの地域に「キリスト教の祝福」が具体的にどのように見られるかを確かめるためにダラス市の社会的な統計について調査しました。
彼は犯罪、街の治安、警察による法の執行、司法・刑事制度などを含む、様々な統計や調査結果を示しました。保健、教育、労働、住宅、経済全般についても調べ、ホームレスの人たちや援助が必要な人たちへのプログラムにも目を留めました。これらの各項目について、人種的、また経済的要因をもとに評価しました。
その番組は1時間程の番組で、私は一人で見ていました。私は打ちのめされてしまいました。こんな街にはだれも住みたいと思わないだろうと感じました。犯罪、老朽化した社会制度、病気、経済格差、人種的な不正義、といった全般において、この都市は生活をするのにふさわしい質をもっているとは言えないのです。そして、これがアメリカで「最もキリスト教化された」都市だったのです。私は泣きたくなりました。
番組はそこで終わりませんでした。司会者はこの荒廃した地域の状況をクリスチャン指導者たちに示し、彼らの意見を求めました。そこに集められていた指導者たちは有名で誠実な人たちでした。彼らは一人ひとり、この私が見たのと全く同じ統計を見ました。ナレーターは単純にこの指導者たちに尋ねました。「クリスチャン指導者として、この街の状態に対してあなたはどう応答しますか。」彼らは例外なく、様々な仕方で同じ事を述べました。「それは私たちが関わる事ではありません。私たちは霊的な指導者ですから。」
番組は終わり、部屋は静寂に包まれました。私の世界は崩れ始めました。この事実に私は驚き、沈黙するしかありませんでした。このジャーナリストが示した事について議論の余地はありませんでした。私たちはクリスチャンとして、福音は社会に益をもたらし、その祝福は信仰を持っていない人たちにも及ぶと確かに教えています。しかし、クリスチャンという人たちの割合が高い国々の実情を見ると、それは現実には起きていません。私たちはこの事実に直面しなければならないのです!

どこからおかしくなったのでしょうか。
なぜクリスチャンが多数を占める地域がこんなにひどい状況にあるのでしょうか。なぜ福音はこのような混沌をもたらしてしまったのでしょうか。私はアフリカへの4ヵ月の旅行を始めた時、なおもこのような疑問を抱いていました。私はトーゴ、ガーナ、ナイジェリア、ケニア、ウガンダ、南アフリカといったキリスト教化された主な国々を訪問しました。私の苦悩はさらに増しました。私が喜びをもって引用していた宣教に関する統計は、私の頭から離れませんでした。サハラ以南では今世紀末までにクリスチャン人口が80%になると言われているアフリカ。世界で最も福音化された大陸であるアフリカ。今世紀末までに最も多くの教会が存在するようになると言われているアフリカ。しかしどの国にも同じ問題が存在していました。どこを見ても、貧困、病気、暴力、腐敗、不義、混沌がはびこっていたのです。
アフリカを旅行しながら自分の国について考えていると、心が重くなりました。私はこう祈りました。「主よ、どこからおかしくなったのですか。」この大陸に約2000年も宣教の働きが集中的になされてきたのに、なぜこんな結果になるのですか、と。神は宣教についての私の理解、また私の召命を、根本的に、そして永続的に変える、新しい啓示をもって語られました。「お前が見ている荒廃は、福音を救いを述べ伝える事のみに限定してしまった結果、もたらされたものだ。」
語られた事の意味を考えながら頭の中がぐるぐる回り始めました。なぜ私は自分の教えと目に見える結果との矛盾を正直に見て来なかったのだろうか。もし福音が社会全体に影響を及ぼすのであるなら、おそらく歴史上最もクリスチャンの割合が多いとされるアメリカが、なぜ殆ど全ての分野において、聖書的価値観から外れてしまっているのだろうか。なぜ私はこれらの事を統合しようと考えなかったのだろうか。なぜ私たちは自分たちを吟味し、自分たちが足りない事に目を向けてこなかったのだろうか。
私たちはクリスチャンとして神が啓示された事の重要な部分を見過ごしてきたという事に、この一年以上前から、気づかされていました。私の世代においては、全ての造られたものに救いのメッセージを伝える事にはとてもよくやってきましたが、国々を主の弟子とする事はどうでしょうか。教会が歴史を通じてしてきたように、福音によって地域を変革するための知恵、知識、影響力をどのようにして取り戻す事ができるのでしょうか。
この答えを求めて、教会の影響力の欠如について私と同じように見ている神のしもべたちの話を聞きました。しかし、この地域において最も大きなビジョンを抱いている指導者でさえも、私の問いに対する答えを示してくれませんでした。一体、どこに希望があるのでしょうか。

とうもろこし畑での啓示
それから一年経たないある日、私は7ヶ月間のアメリカ宣教ベース訪問の旅行中、ある大平原の穀倉地帯を運転していました。車を運転している時、創世記から黙示録まで聖書全体が録音されている朗読テープを聴くようにという非常に具体的な目標を神から与えられたと感じました。アイダホ州ボイス市とネブラスカ州オマハ市の間を移動している時(そこはとうもろこし畑と小麦畑が5日間続く地域でした)、突然こう感じました。「ああ、今の章は何について語っているのだろうか。律法についてだ!モーセは律法を教えていた。そして政府を形作っていたのだ。」またしばらく、とうもろこし畑の間を過ぎていった時、こう思いました。「今の章は何について語っているのだろうか。衛生管理についての事だ!」経済についての箇所も、家庭や健康についての箇所もありました。そしてまた別の律法、さらに次と続いていきました。私の小さく貧しい頭脳に光が差しました。その啓示はレーザービームのように突き刺したのです。モーセの務めは一つの国民を主の弟子とする事でした。彼は300年以上も奴隷であった人々に、国家を形成し、運営していくにはどうしたらよいか教えていました。モーセはイスラエルの民に、政治、経済、家庭、祭司、そして人間社会の全ての領域についての神の原則を教えていたのです。それをするのに荒野で40年間を過ごし、それら全てを書き出したのです!
私はモーセ五書を20回くらい読んできましたが、その時何を考えていたのでしょうか。私は「救いの福音」というメガネを通して読んでいたのでした!聖書を読む時は、救い、罪、赦し、祈り、正義、霊的戦いといった特定のテーマを捜しながら読むようにと教えられてきました。これらの重要なテーマは福音の主要な部分です。しかし私は、はっきりと歴史書である事が分かっている書についても、比喩的に読んでいました。歴史書に書かれている事は、特定の時間と空間においてなされた出来事の記録です。モーセに起きた事は本当の出来事でした。モーセは本当にイスラエルの民を導き、本当に荒野を進み、彼らを繁栄した国民とするという本当のチャレンジに直面していたのです。

歴史上、最も必要のあった国民
モーセには何と大きな務めが与えられていたのでしょうか!私たちは現代において、必要のある国々があると思っています!しかしモーセが取り組まなければならなかった事を見てみましょう。イスラエルの民は430年の間に、70人の一つの部族から300万人以上にまで増えた国民でした。彼らはその間ずっと異国をさすらっていました。300年間はエジプトのパロのもとで奴隷として働かされていました。彼らは自分たちで運ぶ事のできるものと、所有していた家畜をもって、エジプトから脱出したばかりでした。以下の事について考えてみましょう。
・彼らは貧しかった
・彼らには学校がなかった
・彼らには政府がなかった
・彼らには経済がなかった
・彼らには土地がなかった
・彼らには軍隊がなかった
・彼らには産業がなかった
・彼らには宗教制度がなかった
・彼らは生活保護を受けて当然と考え、労働倫理がなかった
・彼らは抑圧され、被害を受けてきた
・彼らにはきちんと築かれていない社会制度しかなかった

イスラエルの民は疑いなく、歴史上、最も未発達の国民でした。今日存在するどんな国と比べても、イスラエルはさらにひどい状態にありました。神はこの民に対してこう言われたのです。「あなたがたは国民と呼べるようなものではないが、わたしがあなたがたを国民とする」(申命記4:20、14:2参照)。神はこのような状態にあったイスラエルに対して、彼らが偉大な国民となり、他の国々が彼らの偉大さに敬意を示し、彼らによって祝福を受けると約束されたのです(申命記4:5-8)。イスラエルの民がそれを信じなかったり、戸惑ったり、あるいは皮肉に感じたりさえしたのは当然だと思えないでしょうか。
しかし約300年の間に、神はそうされたのです。神は彼らをこの地上において最も偉大な国民の一つにされたのです。神は彼らをあらゆる領域において偉大な国民とされました。彼らは正しい律法を持ち、経済的に栄え、彼らの建築物や技術は卓越していました。彼らには優れた教育と知恵がありました。彼らの王の一人、ソロモンは偉大な科学者でした。かつて彼らを奴隷として使っていたエジプト人でさえ、彼らを尊敬するようになりました。彼らは決して完璧な国ではありませんでした。神は彼らを完璧にするとは決して約束されませんでした。しかし、彼らは偉大な国民となったのです。

全ての国民への希望
神は私たちに、全ての造られたものに救いのメッセージを伝えるように命じられ、それをどのようにすべきか教えてくださいました。しかし神は、全ての国民を主の弟子とするようにとも命じておられ、イスラエルをモデルとして、モーセを教師として私たちに示しておられます。奴隷の状態から偉大な国民へと変えられたイスラエルの歩みは、国民を主の弟子とするにはどうしたらよいかを示す模範です。地上における全ての国民に対して聖書は希望をもたらしてくれます。それは、もし神がイスラエルを弟子とする事ができたのであるなら、どんな国民をも弟子とする事がおできになるからです。神の真理は地域社会を変える事ができ、そして確かに変えています。それはどの時代のどの国においてもなされ得る事なのです。
神は「わたしはこのようにした。さあ今、あなたがたはこれらの原則を将来の世代に対して適用するのだ」と言っておられます。しかし私たちは、御言葉にとどまらなければなりません。私たちは何よりもまず初めに、国民を主の弟子とするという事について御言葉に何と書かれているかを理解する必要があります。もしそうしないなら、私たちは真理の永遠の原則とは異なったものによって国民を弟子とする事になってしまいます。私たちは御言葉への愛に捕らえられる必要があります。御言葉は私たちにとって鉱山のようなものです。黄金や宝石を見つけるために深く掘らなければなりません。私たちは、御言葉以外のものを土台とする事はできないのです。
この祈りを日々祈りたいものです。「神様、あなたの御言葉を知り、国民を主の弟子とするという事についてあなたが何を語っておられるかを理解する事ができるように助けてください!」社会の一つ一つの領域において神が何を教えておられるかという視点から聖書を学ぶ事を始めましょう。例えば、御言葉は政治について、経済について、健康について何を教えているでしょうか。私たちはモーセ五書から学び始める事ができます。これらの事柄を教えるのがモーセの務めであったのは明らかです。それから、聖書の他の部分において特定の領域について御言葉が何を教えているかを見ていく事ができます。
キリスト教は単に個人の心の変化によってのみ示されるものではありません。キリスト教は群れを通して、人々を通して示されるものです。それは社会が必要とする全てのものを含んでいます。キリスト教は「あなたがたの土台とする事のできる律法がここにある。これらの原則に基づいて国を建設するなら、そのような国は強い国となる」と語っているのです。アブラハムの時代から、神はこられの原則が全ての国民において教えられる事を計画しておられるのです。
日常生活や職場において、国民を主の弟子とする人となるとはどういう事か、あなたも祈り深く考えてみませんか。神がどのようにしたらよいかを教えてくださっている事に感謝しませんか。聖霊の助けによって、神があなたに示されている事を勤勉に学び、理解しようとしてみませんか。そうすれば、神は私たちの心を開き、はっきりと理解できるようにしてくださいます。私たちの口を開き、私たちに権威を与えてくださいます。私たちが忠実に応答する時、神は啓示を与えてくださいます。神は世界の国民を弟子としたいと強く願っておられるからです。■

ジム・スタイア他編 His Kingdom Come: An Integrated Approach to Discipling the Nations and Fulfilling the Great Commission (Seattle: YWAM Publishing, 2008) ランダ・コープ著 “Old Testament Template for Discipling Nations”より抜粋したものです。
2009年のダイアリーより

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