支配するのではなく、仕える

全ての国民を弟子とする過程で、教会の役割を明確にする必要があります。教会は、社会の全ての領域において、良心と知恵をもたらす預言的で、愛にあふれる声であるべきです。教会が本来の役割を超え、踏み込むべきでない領域を侵害し、強制的に変革をもたらそうとするなら、社会は抑圧され、神の御国はその立場を失います。
教会が他の領域を支配しようとするならキリストの目的に反してしまいます。キリストに従う者として、支配的な思いではなく、愛の奉仕によってそれらの領域に影響を及ぼしていくべきです。これが神の方法だからです。

もし私たちが社会に対して「最終的な解決」を強いるなら、私たちに反対する人たちを迫害し、誤った方法で権力を用いる危険に陥ります。このような事が歴史上、繰り返しなされてきました。私たちはイエス様の心と方法で国々を主の弟子としていく必要があります。イエス様は全ての反対者たちを滅ぼす事ができましたが、そうではなく自分の命を捨てられました。そうする事によって、イエス様は決して侵される事のない権威を確立され、全世界が神との平和を持つ事ができるようにしてくださいました。まだ誰も見た事はありませんが、神の御国は既に勝利を得たのです。
私たちが主の方法から背を向け、権力、二枚舌、暴力、操作などを行使するなら、神の御国は既に私たちの内で死に、戦いに敗北する事になります。私たちは聖霊によって、真理と変わる事のない愛をもって仕え続ける必要があるのです。
私たちはとても複雑で難解な任務に直面しています。だからこそ、この時代において私たちがどのように行動するべきか、神の導きに注意を傾ける必要があります。
国々を変革する道のりが、どれ程長いものであろうと、また過去にどれほどの失敗を重ねていようと、教会はこの事について取り組み続ける必要があります。その苦闘の中で、私たちは神に力を与えてくださるようにと熱心に叫び求めるのです。私たちが心を尽くして神を求める時、知恵と聖さが増し加わります。他の宗教、イデオロギー、霊的な団体、政治的・経済的な圧力団体などとの葛藤において私たちの価値観が試され、原則が立ち行かなくなる時、私たちは絶えず刺激され、神の御国における私たちの働きについて考えさせられ、それをさらに強め、再定義し、新たに立ち上げられていくのです。私たちは神に頼る事なしには何もできないという事を知るにつれ、生きて働かれる神にますます頼るようになるのです。
イザヤ61:1-3に示されている事は何という大きなチャレンジでしょうか。しかしキリストは来られ、まさにその御言葉を成就されました(ルカ4:21)。神の御国における役割を完全に理解するには、その不可能な事を成し遂げられた方を求めなければなりません。
神は私たちに天国が来る事を待っていなさいとは教えておられません。私たちは天国で神の御心が実現するのを最終的に見る事になりますが、神は今この地上において、神の御心がなるように祈り、行動するようにと私たちを促しておられます。私たちはイエス様の権威において出て行き、全ての国民を主の弟子とし、彼らの生活と社会において、イエス様の教えを適用するように教えるべきなのです。
御国の福音は私たちの生活に密着したものであり、非常に力強いものです。神はイザヤ9:7において、御国は何によってもとどめられる事なく前進すると約束しておられます。神の熱心がこれを成し遂げるのです!神はその事に献身しておられます。神は全能の神です。神こそ私たちの希望であり、私たちが最善を尽くすための動機なのです。マタイ6:10には私たちの祈り、また目的が示されているのです。
「御国が来ますように。御心が天で行われているように、地でもなされますように。」

ジム・スタイア他編 “The Church and the Kingdom”、 ジム・スタイア著 “Reflections on the Kingdom” より抜粋したものです。 
2009年のダイアリーより

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