神の御国

だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行なわれるように地でも行なわれますように。」マタイ6:9-10
数年前、フィリピンである宣教師が毛沢東反乱軍に入ろうと考えていた若者に出会いました。ある日その宣教師は、グループのリーダーに、クリスチャン信仰では体験できない、毛沢東主義のもっている魅力は何かと尋ねました。若者の答えは、深遠かつ痛烈でした。

彼は説明して言いました。「毛沢東主義は、私達に4つの要素を与えてくれます:(1) 統一かつ首尾一貫した世界観、歴史観、実在観;(2) 働くこと、生きること、死 ことへの明確な目標;(3) 共 の仲間意識を持つためのすべての人々への召命;(4) 絶望している人々へ希望をもたらす良い知らせを広めるための献身と任務感。実際のところ、あなたのクリスチャン信仰が、このようなビジョンを私達に与えることなど出来はしません。」1
その宣教師は、これらの若者や理想を求める人々 の情熱が破壊的なイデオロギーに捕らえられているのを、悲しい思いで見ていました。

壮大なビジョン
ビジョンは人間の基本的な必要です。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」(箴言29:18)イエスは、歴史上類い稀な最も深遠で力強い事のために、お生まれになり、死なれました。イエスは、み言葉の中でご自身の働きを表されました。「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。」(ルカ12:49)イエスが、点火するために来られたこの火は、一体何だったのでしょう?この火−ビジョン−は、神の御国でした。2
神の御国の概念は、聖書の中でも、最も困惑させ、議論を呼び、また誤解される考えの一つです。ある人々は、地上に神の御国を建設するという名目で、暴力的な革命を起こしました。またある人々は、神の御国を進めるという名目で、社会事業と富の再分配の念入りな計画を主張しました。多くのクリスチャンは、その主旨を簡単に無視し、異端的なキリスト教分派と脱線しています。他の人々は、神の御国を天国、またはキリストの再臨の待望として考えています。しかし彼らは、御国の本質または永遠に生きることとの関連性について、はっきり判っていません。彼らは、神の御国を未信者に説明する難しさを感じています。
しかしながら、神の御国は、イエスの教えの中心的テーマでした。イエスは働きながら、神の御国について情熱的に語りました。「神の御国」または「天の御国」は、新約聖書に98回出てきます。イエスの口からは、60回以上語られました。もし、イエスが私達の主であるなら、自分自身の考えと見解を捨て、神の御国の聖書的な見解を見い出し、どのように人生を生きるべきか、その実際的な価値を求めなければなりません。キリストの心を、そんなにも強く燃やしたこの考えは何でしょう?イエスは、一体何を私達に教えようとしていたのでしょう?

なぜ天国は、神々しいのでしょうか?
イエスは弟子たちに祈ることを教えられました。「御国が来ますように。御心が天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6:10) この祈りは、神の御心がなることと、神の御国が来ることの間に関係があることを示しています。
天と地の違いは何でしょう?言い換えれば、なぜ天国は神々しく、地はそうでないのでしょう? 天国において、すべての住民は、神の御心に完全に従います。その結 、天国は完全な所なのです。それは、地上の殆どの人間が望んでいる類いの所なのです。反対に、地上では、神の御心に完全に従いませんでした。聖書は、アダムとエバが神との関係を断ち切ることを自ら選んだと教えています。この不従順によって、神と人間の関係は壊れました。その結 、今日人々は、神の知恵深い御心と意志に反抗しています。(創6:5, ローマ3:23)彼らの反逆の結 、私達個人の人生、家族、社会、そして環境さえもうめき喘いでいるのです。
歴史における神の贖いの目的を示すため、聖書で用いられている最も優れている形は、神の御国です。イエスは、神の御国は神の御心がなされている所であると暗示されました。私達は、3つの質問に答えることによって、この定義の理解を深めることが出来ます。:(1) 王国とは何か?(2) 神の御心は何か?(3) 神の御心がなされる所は何処か?

王国とは何でしょうか?
すべての王国には、万人に じる4つの構成要素があります。(1) 統治する王;(2) 臣民、または王が支配する人々;(3) 法律、条令、そしてそれらを管理運営する政府;(4) 王が支配する領域または領地。神の御国もそれと同じです。神が支配者であり、キリストは神の指名した王です。(詩2:4-9, 黙19:11-16)天使たちと並んで、悔改め、信仰、そして神の御心に従うことを して、イエスの王権を受け入れた人々は臣民です。御国の政府からの神の御心—神が現された律法と条例—は、管理運営されます。神の御国の領域は、神の御心に服従するすべての創造物を取り囲んでいます。

神の御心とは何か?
新約聖書において、意志(will)のギリシャ語はthelaymaで、意図または願いを意味します。聖書が神の御心を語る時、それは私達への意図を示しており、多くの場合、み言葉の中で直接の命令として述べています。使徒パウロは、神の御心を「良い、受け入れられる、完全なもの」として表しています。(ローマ12:2)
神ご自身のように、無限の神の御心は、神が現そうと決められた以外は、限りある人間の思いによっては知ることが出来ません。感謝すべきことに、神はご自身を私達に現わし、そして御心の一部分を人間に示されました。それは、私達が地上において繁栄する必要のあるものです。人間に対する神の御心は、幾つかのレベルで現されています。 (1) 一 的な啓示、または創造物が現しているもの、彼ら自身の理解と良心によってすべての人々に示されている神を知る知識を して。 (2) 特 な啓示、または聖書によって証されている神ご自身の超自然的な啓示と御心を して。それは、生けるみ言葉であるイエスにおいて、ご自身の完成された啓示をも含みます。 (3) 聖霊の絶え間ない証しを して。
神がご自身を私達に示されたので、私達はどのように神と、また他の人々と、そして霊的な領域と、その他の創造物と正しく関わるかを知る事ができたのです。

神の御心は何処でなされるのでしょうか?
神の願いは、ご自身の御心が地上のあらゆる所において、天でそうあるように、地でも従われることです。もし私達が、個人的なすべての聖さ、清廉潔白さ、体の管理、人間関係において、すべて神の意図する所に従ったなら、何が起こるでしょう?もし、すべての家族の一員が、お互いの関係において神の意図に従ったなら、何が起こるでしょう?もし、すべての指導者と教会員が真に互いを愛し、仕え合い、力の無い者を代弁し、一致をもって生きるなら、教会において何が起こるでしょう?もし、コミュニティの指導者たちが、正直さと清廉さをもって、公益のために共に働くなら、何が起こるでしょう?もし、国内に何の腐敗も無かったなら、また本当の正義があったなら、何が起こるでしょう?
神の民が御顔を求める時—神の御心に聞き従う時—、神は、その地を癒すと約束しています。(2歴代7:14)その地の癒しと、私達のコミュニティ、国々、世界へ来るべき神の平和は、神の民が御心を行なう事と直接関わっています。神の御国は、地上とそこに住むすべての人々への、神の最初の意図を映し出しています。人間の罪の性質が、それらの意図を妨げていますが、神の御国が再建されることこそが、神の御心です。

現在と未来の現実
ある意味、神はすでに御国を再建されました。イエスの生涯、十字架での死の犠牲、勝利の復活を して、神の御国は実在する現実となりました。御国がすでに来たので、私達は罪からの救い、神との新たな交わり、人間同志、環境の中に実在する癒しを受け入れることが出来ます。しかし同時に、神の御国の完全さは、未来にある現実でもあります。完全かつ全き癒しは、キリストの未来における再臨まで実現することはありません。(黙21:1-5)

この「間の時間」における教会である私達の任務は、創造物全体に亘って、神の御国の祝福を拡大することです。私達は、神の御国は「霊的においてのみ」または「未来においてのみ」実在するという一 的な見方を抱くべきではありません。むしろ、本当の癒しは、地上で、またキリストの成し遂げられた業の上にあるすべての分野において、現実であるということを信じるべきです。神は、すべての人々が、王であるキリストの未来の統治を、現在において表す者となるよう召しておられます。これこそが、神の御国の壮大なビジョンです!

1 John Fuellenbach, The Kingdom of God: The message of Jesus Today (New York: Orbis Books, 1995), p.9.
2 Ibid., p.3.
「Gods Unshakable Kingdom」(神の揺るぎない王国) by Scott D. Allen, Darrow L Miller, and Bob Moffitt, (YWAM出版)より作成
2006年のダイアリーより

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