文化:物質的なものと霊的なものが集まる所

神は、人間を文化を作る者として造られました。そして、私達がどんな文化を作り出すかは、とても重要なのです。どんな職業に、どんな分野に召されていても、クリスチャンとして私達の働きは、究極的には神の御国の文化-神の真のご性質とご性格を反映している文化-を造る事なのです。
文化の作り手としての私達の責任は、創造物と文化の両方の統治をするよう召された事でした。それは、創世記1:26-28の創造の話の中に見出されます。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
神は、創造の働きが最高潮に達した時、「われわれのかたちに人を造ろう。」と言われました。この言葉によって、人のアイデンティティが確立されました。人は神の形(imago Dei)に造られました。神はまたこう言われました。「すべてのものを支配させよう。」これらの言葉によって、人の目的が定められました。人は、代理人として神の代わりに治めるよう造られました。または異なった人物像を用いるなら、人は神の家族の管理人として造られました。
神が造られたものは完全でしたが、それはまだ完了してはいませんでした。神は第一番目の本来の創造者です。人類は、J.R.R. Tolkienの言葉を用いるなら、「第二番目の創造者」です。神は第一番目の創造物を造られました。人類は、第二番目の創造物-文化-を造る事になっています。その文化は、本来の創造者と第一番目の創造物を指し示し、その栄光を現わすものです。そして、今度は人間が代わって、神の形を持ち地球を発展させる者で、地を満たす事になっているのです。ドングリのように、神の御手による創造物はそれ自体においては完璧完全ですが、そのドングリのもつ可能性は、人類によって解き放たれなければなりませんでした。ドングリは、力強い樫の木になるよう育てられなければならないのです。

文化:外面に表された礼拝
なぜ、創世記の御言葉を文化的な命令と言うのでしょうか。文化を造るという事はどういう意味でしょうか。文化とは何なのでしょうか。
神学者ヘンリー・ヴァン・ティルはそれをとても単純明快に述べています。「文化とは外面に表された宗教である。」 文化は、その心臓部において、人々の崇拝心が顕現されたものです。それは、彼らが礼拝する神を反映しています。この理解は、文化は人種や生き方を総合したもの、または彼らが受け継いで来たものの反映であるという、現代唯物論者の前提と対比しています。聖オーガスティンの文化の性質に対する理解は、この区別の重要性を明らかにしています。
オーガスティンによれば、文化は人々の人種、民族性、民俗学、政治、言語、または遺産の反映ではないという事です。それはむしろ、人々の信条の外面的な働きなのです。言い換えれば、文化は、人々の信仰の一時的な現れです。もし、文化が変わり始めたなら、それは、気まぐれや流行、時間の経過ではなく、世界観の変化、信仰の変化なのです。
オーガスティンが、世界の異教的な哲学を批評したり常軌を逸脱した教会の神学を暴露するのに、自分の人生とミニストリーを大半費やした理由は、彼が、それらのものが、単に多くの人類の霊的な運命を決定する永遠の領域において重要であるだけでなく、文明全体の運命を決定する現世の領域においても重要である事をよく理解していたからでした。
オーガスティンは、人々の優勢な世界観が、必然的に彼らの考えている世界を形作るという事を認識していました。
オーガスティンは、文化は人間の礼拝の現れであるのだと理解していました。それは、礼拝される対象の性質と性格を反映したものです。または、少し違った言い方をすれば、文化は人々の世界観を表したものです。アフガニスタンのタリバンは、彼らの礼拝を反映した社会を造り出しました。同様に、アメリカ合衆国の大衆文化は、この世の信じる物質主義的理想の現れです。
人類学の現代の概念は、唯物論的な考えに由来しており、文化を中立的なものとみなしています。物質主義的なパラダイムには、神がいません。それゆえ、客観的な真理がなく、故に、全てが相対的です。この想定からは、一人の人、または一つの文化が他のものを批評できるという道はないのです。どんな文化も、またはどんな文化の局面も、他のものとの比較はできないのです。そのように、全ての文化は、その文化そのものの故に評価されるのです。私達が文化を中立なものとして見るなら、それを批評しようとは思わないのです。このように、ドイツ・ナチスの死の収容所と慈善団体のマザー・テレサ修道女の病院、そして現代アメリカの大衆文化の間を区別する事は出来ません。
しかし、文化は礼拝に由来していて決して中立ではありません。文化は、霊的なものと物質的なものが一点に集中した所に立っているのです。実際、文化においては、霊的な分野が物質的な分野に影響を与えているという事ができます。ちょうど考え方が結果をもたらすように、私達の礼拝もそうなのです。私達の崇拝心が文化として表現されていきます。それは、次に、私達がどんな社会や国々を建てるかを決定します。この事は明確に例示されています。もし人々が、東洋のアニミズムのように、気まぐれな神を礼拝し賄賂によってご機嫌をとるなら、贈収賄が日常生活の一部となり腐敗の文化が定着します。それは、ビジネス、経済、政府、司法制度の中に現れ、破壊が生じます。そして、霊的な貧しさに加えて、物質的に貧困な国になっていくのです。

文化を批評する
明らかに、文化は中立ではありません。私達は、生きている神によって造られた宇宙に住んでいます。そして、ポストモダニズム的な考え方に反して、この宇宙には客観的な現実があるので、人々の文化は批評され、その価値が見極められます。そうする事ができるだけでなく、そうすべきなのです。もし、私達が国々の健全さに関心があるなら、正義に導くものと、腐敗を引き起こすものを見分ける必要があります。私達は、奴隷制度、残酷さ、および貧困を引き起こすものと対照して、自由、憐れみ、および経済的福祉をもたらすものを吟味する必要があります。
主に3つの文化的な基盤があります。それは、神の御国の文化、偽の文化、そして自然の文化です。 これらは、その程度の差こそありますが、全ての国で見られるものです。全ての国には、幾つかの御国の文化とそして幾つかの偽の文化とがあります。 この基盤は、神が存在している事、そしてその神が、実在的で客観的な宇宙を作った事を前提としています。 真実と偽り、善と悪、そして美と暗黒があります。

御国の文化
御国の文化は、現実の真理の上に建てられています。それは、全ての創造者である生ける神のご性質とご性格を映し出したものです。御国の文化は、人々が意識的にまたは無意識に神の律法に従った時に生み出されます。神の律法は、神のご性格を現したものです。神が真実で、公正で、麗しいお方であるように、創造物もそれを支配する律法もそうなのです。イエス様が弟子達に、「あらゆる国の人々を弟子としなさい。また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(マタイ28:20)と言われた時「わたしが命じておいたすべてのこと」という表現は、真理(神の有形かつ無形な律法を表している)、正義(神の道徳的な律法を表している)、そして麗しさ(神の審美的な律法を表している)の内においてのみ限られているものです。ダグラス・ジョーンズとダグラス・ウィルソンは、この三部作を「文化の3つの側面」として説明しています。これらは、御国の文化の土台であり、それらは、生命、健全さ、発展へと導いていきます。
御国の文化は、神の王国の現れです。イエス様は、弟子達が地上の王国に強い影響を与える天の御国を持つよう召されました。主の祈り(マタイ6:9-13)は、2つの王国の相互作用があることを認識しています。「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように、地でも行なわれますように。」神の御国は、「神のみこころが行なわれる」領域であり、人々が「神の命じた事全てを守る」所です。天にある御国が地に来るべきです。御国の実質は、天と地において、現在と未来にあるものと同じものです。違いはその実質ではなく、満たされる度合いなのです。
御国の文化は、C.S.ルイスの言葉を用いるなら、それぞれの人と国を、イエスの支配の中に「更に高く、更に深く」入って行くよう召しています。御国の文化は、生ける神への礼拝の行為として、地上の発展、土壌の耕作、魂の育成へと召し出しています。教会は、礼拝の行為として、生ける神のご性質とご性格を、世界に対して現す文化を造り出すべきです。これは、私達が、真理(存在に関する聖書的理解と知識)、正義(聖書的倫理)、そして麗しさ(聖書的美意識)を、人生の全ての中にもたらすべきだと意味しています。
 全ての国には、御国の文化の要素があるでしょう。その文化が見出される所はどこでも、それが養われ奨励されるべきです。

偽の文化
模倣の文化は、真実な事、公正な事、そして美しい事についての、サタンの偽りを信じて生み出されたものです。サタンは偽り者であり、偽りの父です。サタンは、個人と国の両方について偽りを言っています。彼は、文化においても国々に偽りを言っています。偽の文化は、サタンの偽りと悪霊的な影響の上に築かれています。イザヤは、イスラエルの民に対して、現実を歪めている事に警告を与えています。

「ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。」イザヤ5:20

国々全体を死、奴隷状態、そして貧困状態に導く事は、これらの偽りを信じている事なのです。全ての国は、いくらかの度合いで偽りの文化を有しています。もし、国が健全に成長すべきなら、破壊的な要素を認識し、それらを抜き取り、それを御国の原則と置き換えなければなりません。

自然の文化
文化の自然な要素は、道徳観のない領域の中にあります。それらには、造られた状態に伴って、独特な色、手触り、音、人々の好みがあります。それらが、道徳的に中立である間は、それらは人々に興味と命を与え、他の文化の隣人の人々に楽しみを与えるのです。自然な要素は誉め称えられ、喜ばれるべきです。
文化が神である創造者と神の創造物を現せば現すほど、それは良いものと考えられます。現実が歪められ、文化が暗くなればなるほど、人々は貧しくなり奴隷状態になるのです。
神は私達を、文化を作るべき者として造られました。クリスチャンとして私達は、御国の文化を造るために意識的であるよう召されました。神は、私達をご自身の形に造られ、そしてまた私達を創造する者として造られた際に、私達一人一人に非常な責任と機会とを与えられました。インドの学者、作家、そして開発専門家であるビシャル・マンガルワディ氏は、それにふさわしい畏敬をもってこう表現しています。「神は語って宇宙を造られる。人は語って文化を造る。その文化は宇宙を形作る。」

ダロー L.ミラー著
2009年のダイアリーより

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