なぜ宣教なのでしょうか?

なぜ、祈るのでしょう?なぜ出て行くのでしょう?なぜ宣教なのでしょうか?
ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。黙示録5:12
あまりにも多くの人々が霊的な暗闇と偽りによってキリストから引き離され、キリストを知らずにさまよっています。全てのクリスチャンには主キリストのために、そのような人々に宣べ伝えることが神の御心であるという聖書的な理由があるのです。その7つの理由を挙げてみましょう。

しかし、これらの理由は、あなたが今ここで主イエスに従うという応答をしないなら、ただのリストです。今、少し時間を取って祈ってみて下さい。教会と、世界の国々のために神の栄光を伝え、神の情熱を分かち合うことができるようにとあなた自身を捧げていただきたいのです。


ほむべき小羊
この世の終わりには、あらゆる部族、国語、民族、国民が神の小羊をたたえるために御座の回りで、彼らのあがなわれた文化と音楽によって賛美するのです。喜びに満ち溢れて御座に集い、彼らに代わって神が勝利してくださったことを祝うのです。
この世の人々をあがなうために、はずかしめを受け、死なれた方は、永遠の賞賛と賛美を受ける方です。歴史は、私たちにご自身を捧げられた方への賛美によって完成されるのです。主は私たちを御国の祭司とするために死なれました。
宗教や恐れ、まじないから開放された私たちは恵みの御座にためらわず入れるのです。その日はやってきます。主イエスはもうすぐ来られるかも知れません!
宣教とは、教会のプログラムや、宣教師による伝道、金銭や信仰を与えたり、人々の傷をいやすことではありません。それは、小羊となられた獅子、すべての民のあがない主、世の救い主イエスについてです。主のためのものです! 私たちが宣教することにより、主は、すべてのものの創り主、あがない主なる方としての苦しみと賛美の報いを受けるのです。

聖霊の働き
私たちは教会歴史の中で最も素晴らしいリバイバルの時代に生きています。聖霊が世界の各地で働かれている時代に生きているのです。歴史的に、今この時というのは、過去になく神の聖霊が何百万の人々をすべての大陸で、同時にご自身のもとに導かれています。教会は今、中国、インドネシア、インド、韓国、南アメリカ、アフリカで急成長しています。
神は東ヨーロッパの共産主義の国々の霊的要塞を撃ち破り、イスラム、仏教、ヒンズー教などが人々に恐れや文化的分裂をもたらし、福音を聞かせなくしていた覆いを取り除いておられます。それは神の恵みの招きでり、この前例のない聖霊の働きに加わる教会の神聖なる特権です。父なる神がこの地でなされていることに敏感でなければいけません。
神は今までになされなかった方法で、この地の全ての民から人を集めるためにこの時を選ばれました。ですから、教会が主のなされていることの一部であることは神の御心なのです。教会こそが神がなされていることなのです。神はご自身のためにこの地の全ての民の中から人々を起こされ、神の栄光を地上に満たされるでしょう。

滅びゆく人々
地上の人口の殆どは、永遠に神から離れて、救いを知らないまま人生を歩むのです。地獄は現実です。しかし多くの福音的クリスチャンが神学的には地獄を信じているにもかかわらず、人々の滅びに緊迫感を持っていません。神は、救い主を知らない人間の喪失感の恐ろしい現実を私たちの心に焼き付けるでしょう。人は皆罪の赦しが必要です。イエスの御名のほかには救いはないのです。聞き、信じ、その名を呼ぶことにより、永遠の神との決裂から救われるのです。

貧しい者の苦しみ
私たちは、干ばつや飢餓、貧困、不正な政治に対して免疫ができやすくなりがちです。私たちの無感覚な心をイエスの憐れみで満たして下さるのは、ただ神の恵みによるのです。聖書はイエスが群集を見て憐れに思われたと言っています。私たちも、隣人の必要や、飢餓対策の広告の子供の顔に、あるいはアフリカのニュースに対して、同じ反応を示すべきです。私たちには情報が与えられています。今こそ祈る時です。行く時です。希望のない人のイエスとなる時です。

委ねられた教会
イエスは出て行くようにと命じられました。行くというのは場所を変える事です。行って教え、バプテスマを授け、弟子とするように委ねられています。北アフリカの村人も、チベットの山の部族も待っています。私たちの従順を待っています。私たちには全てにこの召しが委ねられているのです。場所が問題です。神の声を聞こうとする心です。主イエスは弟子たちに言われました。「父が私を遣わして下さったように、私もあなた方を遣わす・・・」
腐敗した信者たち
私たちが文化を楽しんだり、快適な暮らしをしていても、ビジョンが無ければ滅んでいくのです。私たちは国々に関心を持つべきです。金銭を送るだけでは十分ではありません。金銭を送るのには権利の放棄も、涙することも、自らを与えることもしなくてもいいからです。

働き人
現地の働き人だけでも十分ではありません。彼等には彼等の役割があり、私たちの代わりに祈り、愛し、弟子を作ることはできません。神は弱った心を励ますために人を用いられます。私たち自身のためにも行かなければなりません。母教会のために犠牲を払うことや、個人的な関与が不十分であってもいけまん。私たちは最善を尽くすべきです。

待ち続ける父
福音を宣べ伝える上で最も大切な動機は、私たちの努力によって未信者や必要のある人々が何を受けるかではなく、神が彼らから何を受けるかです。宣教とは、何よりもまず神についてです。神を探し求め、神を見いださせるために国々を創造されました。(使徒17:24-26)神が国々をご自身の臨在の中に導かれ、国々は自分たちの創造主の内に全ての必要が満たされるのです。
国々が神に最も充足するとき、神は最も栄光を受けるというジョン・パイパーの一節があります。何よりも、私たちは行き、祈らなければ。父が待っておられるからです。父は被造物からの礼拝と従順を待っています。放蕩息子のたとえ話の父のように、神の家へ帰ってくる人々を慕い焦がれています。それにより、この地全体が神の栄光に満たされるのです。

Floyd McClung著
2001年のダイアリーより

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