教会の役割

「会衆としての教会か、全ての領域における教会か」

全ての国民を弟子とするという任務を全うするためには、「教会」という言葉をどのように用いるかを明確にする必要があります。私たちは時々、教会とは社会に影響を及ぼしている多くの事柄の一つであると考えます。それは組織としての教会のことで、ビジネスや政治などと並んで扱われるものです。教会は交わりにおける様々な働きを通して、伝道と愛をもって建て上げ合う事によって増え広がっていくという使命を帯びています(エペソ4章)。ですから、私たちは「教会開拓」という考え方を抱くようになりました。どこでも、誰でも、礼拝、ケア、成長、派遣の機会を提供する、建て上げ合う交わりを必要としています。このような集まりは、会衆としての教会と呼ぶ事ができます。

教会に対するもう一つの見方は、全てのクリスチャンが生活の全てにおいて、全ての領域で機能するというものです。私たちはこの見方をどういうわけか失ってしまい、世俗なものと聖なるものとに区別するギリシア的な考え方に置き換えてしまってきました。「わたしはわたしの教会を建てます」とイエス様が言われた時、それは日曜日に集まる群れを起こす事だけを意味されたのではありませんでした。パウロが「エペソにある教会」に手紙を送ったとき、彼はどのように礼拝式をすればよいかについて教えただけではありませんでした。パウロは、その手紙を読む全ての信者たちに、毎日、あらゆる領域において、あらゆる仕方でどのように生き、働くべきか、聖霊が示された事を教えたのでした。
もしイエス様にあって生きている全ての人たちが「教会」であるなら、彼らは日曜日に集まる時だけ教会なのではありません。火曜日に仕事をしている時も、同じようにキリストの体に属するメンバーなのです。では、新生した全ての人が職業に従事する代わりに教会として働いているのでしょうか。私はそうは思いません。私たちが神の御国を建てる事に意識的に取り組む時、キリストの体に与えられている賜物が「効果を示す」と私は思います。キリストの体の全ての部分に対して、特定の、重要な賜物が与えられているので、私たち一人ひとりに賜物が与えられています。その賜物は会衆として集まる時に用いられますが、結婚においても、ビジネスにおいても、また国家の外交官として働いている時も用いられます。会衆としての教会には、いつも神によって油注がれた指導者たちがいます。もちろん私たちは、会衆としての教会においてこれからもリーダーを必要とし、参加し続ける事が大切です。しかし私たちは、使徒的な起業家、預言的なコンサルタント、牧会的な医療関係者を、認める用意ができているでしょうか。言い換えるなら、聖霊は指導の賜物を単にキリストの体の内側で用いるものとして与えられたのでしょうか。それとも、そのようなしもべとして仕える人たちが社会の全ての領域で賜物を用いる事を意図しておられたのでしょうか。
私たちは、キリストの体全体がキリストの身たけの全身をこの世に対して示す事を許さないでいるために、社会を変革するという働きとその効率を限定してしまっているのでしょうか。会衆においても、また社会全体においても、全てのキリストの賜物が発揮されるように促さないために、本来用いられるべき力の90%を用いないできたのではないでしょうか。神学校の卒業生だけでなく、MBA(経営修士号)を取得した人が宣教の指導者となる時代が来ています。エンジニアが助け、医師が癒しをもたらし、政治家が社会福祉のために仕える姿を想像する事ができるでしょう。もしキリストに従う者たちがこれらの、あるいはその他の職業に召されるなら、彼らは神の栄光のために、自分の仕事をしっかりと全うするためのビジョンと力を神に求めるべきではないでしょうか。

ジム・スタイア他編 “His Kingdom Come: An Integrated Approach to Discipling the Nations and Fulfilling the Great Commission" (Seattle: YWAM Publishing, 2008) の175-181, 461-465ページにある、ディーン・シャーマン著より抜粋したものです。

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