祈りのよる励まし


「説教者の君」、チャールズ・スポルジョン(1834-1892)は、偉大な信者であり、聖霊に導かれ祈る、情熱に満ちた教師でした。祈りについての力強い説教の抜粋を紹介します。
たたきなさい!
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば、開かれます。マタイ7:7
力強い祈りに勝るものはありません。力強く祈る者はその願いのすべてを手にします。

あなたの必要なもののすべてを祈り求めなさい。それが正しく、義なるものならば素直に求めるものには約束されています。あなたが必要としている恵みを見つけるまで捜しなさい。たたきなさい。慰めや知識、希望が必要なら、神から閉め出されているように感じるなら、主があなたのために扉を開けてくださるように、たたきなさい。主の介入が必要なのです。
求めれば与えられ、捜せば見つけることができますが、たたいても、あなた自身がその扉を開ける事はできません。主が扉を開かれるか、あるいは永遠に閉ざされるのです。神には開けてくださる用意ができています。神が明けた扉は誰にも閉じることができません。あなたは恵みの門が罪によって閉じられていると恐れていませんか?自分の裁きによって扉が閉められていると落胆していませんか?扉にはかん きもなく、鍵もかかっていません。ある意味で閉じられている門ですが、それは実に自由に開くのです。ちょうつがいは錆びてもいないし、鍵もありません。主はすべてたたく者の魂に門を開かれます。あなたの恐れのほうがその扉を閉めてしまっていませんか。信仰をもって、聖なる励ましによって、今、入りましょう。
試練の中で、なお神に嘆願するならば、私たちの祈りはさらに熱心になるでしょう。ダビデは、自分を泥まみれのようだと表現し、ますます低く下げ、深みの中から助けを叫ぶまで落ち込みましたが、ついには恐ろしい穴から引き上げられ、彼の足は岩の上に強く立たされました。ですから、私たちも心を広げる必要があります。苦痛の中で、命の水を保つ受け皿が大きくされていきます。祈りの船がすぐに港に戻ってこないのは、荒波の中で、さらに深い恵みを受けているからです。重い心でたたく時も、必ず後に喜びの霊で賛美する日がくるのです。

効的な祈り
あなたが願いの祈りを始めたとき、一つの御言葉が述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。ダニエル9:23
ダニエルの嘆願は何に例えることができるでしょうか。雷と稲光りの中で、神の御前に立ち、ダニエルは言いました。「ああ、いと高き方、ヤコブをヤボクに導かれたように私をこの所に導き、夜が明けるまで、あなたが私を祝福してくださるまではあなたを去らせません。」
熱心な祈りでなければ、すぐに答えが与えられることはありません。「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」ヤコブ5:1しかし熱心でないなら、よい効 は期待できません。私たちの魂の氷の塊を溶かし、燃える心にしてくださるように主に祈り求めましょう。それ程の情熱が無いなら、イエスが共にいてくださるだろうかと疑問が出てくるでしょう。「熱くも冷たくもないので、わたしの口から吐き出そう。」黙示録3:16 主が焼き尽くす炎であるなら、私たちの魂が燃える炎のように成長するまでは、神は私たちと親しい交わりが持てないのです。
力強い叫び、勢いある叫び、天を揺るがす叫び、それらが天の門を開くのです。神の御手はその叫びを拒みません。愛で編みこまれ、聖なる情熱によって満ちた聖徒の叫び!神の御国が拡がり、主の臨在により、新たな日々が来ますように。祈っても一向に答えが返ってこない時も、神がなされるまで待ち望む事が私たちの望みであると神の御前で今宣言しましょう。「あなたが山の後ろに隠れているとしても、夜明けを待つ者のようにあなたを待ちます。遅れないでください、神よ。急いでください、愛する方。」

真の祈り、真の力
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すぐに受けたと信じなさい。そうすればそのとおりになります。マルコ11:24
私たちは与えられた全能の武器を錆びつかせることもできるのです。私たちには偽りを眠らせる力があります。私たち自身が祝福と人々への深い憐れみに満たされ、祈り続けていく力を受けるのです。民のために、私達には特 な賜物が与えられ、それを治める権利を持っています。それなのに、私たちは力を振るうことさえ忘れていないでしょうか。祈らなかったばかりに、挫折し、ほこりにまみれて旗を引きずってきた事はありませんか。武具をまとい、弓を持っていたにもかかわらず、戦いの日に引き返してしまった事を神に立ち返って告白する時です。今こそ私達は目覚める時です。祈りを軽んじてきたと感じるなら、神と取っ組み合い、祝福を頂けるまで、格闘してみて下さい。主の憐れみによる先の雨と後の雨が、地を豊かにし、すべての国が祝福の主と呼ぶ日が必ず来るのです。
もう一度、目を上げて喜ぶ時です。主は「私の顔を慕い求めよ」と叫び続けていらっしゃいます。天の主がいつも聞いてくださるというのはなんという祝福でしょう!あなたが御言葉の約束を信じ、諦めず神と格闘し、祝福を頂けるまで祈り求めるのなら、神がそれを聞いて下さらないことがあるでしょうか。今までにない信仰を持って、大きな恵みの受け皿を神の御前に差し出し、神がそれを満たすことができるかどうか試してみるのです。命をかけ、危険を冒しても私達は永遠に神にチャレンジし続けるべきです。力強い祈りによって聖霊の油注ぎの約束が成就され、私達はさらに力のある祈りの戦士となるのです。

神には不可能はない
どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に。エペソ3:20
あなたは、昔人々が、偉大な王にのみ可能なことを求めたように、天の神に、聖なる大胆さを持って、神の御業を乞うている時かも知れません。そしてまだその祈りは神の御手を動かすには足りていないと感じているかもしれません。私たちのベストの、また大胆な祈りにも、限界があるのでしょうか。自分の必要に目を留めて、 私達の祈りの力に限界を与えてないでしょうか。時に魂の渇きもそれ程なく、罪により霊の飢え渇きは鋭さを失い、結局私達の祈りを束縛しているのです。しかし、神は私たちのそんな状態によって影響されません。客はパンと水を要求するでしょうが、神は祝宴を用意されているのです。
私達は神の約束の一つでも完全に理解しているでしょうか?約束とは、測ることのできない広さ、長さ、高さ、深さを持っています。私達には銀を表すものでも、貴い金としてそれらを用いられます。それ故に私達は主を誉めたたえましょう。私達の思いもよらない方法で、神は私達を祝福されるのです。今までに神に願ったことをすべて集めてみましょう。それを山と積み上げ、その頂上で、私達は遥かに高い神の祝福を見るでしょう。神には不可能なことはありません。私達の想像を遥かに超えたところで、大能の御手は働かれるのです。

Charles Spurgeon著
2002年のダイアリーより

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